ともだち
学校でエドソンに「あたしは仕事ではパソコンに向かってばかりで人と話せないから、このクラスに来るのすごい楽しかったんだよ。このクラス終わったらどうしたらいいんだろう」と愚痴っていたら、「ときどき飲みに行こう」と言われたが、そのときどき飲みに行くのがめちゃめちゃ難しいから悩んでおるのだぞ、エドソン。
翻訳は世界中どこにいても(インターネットがないと無理)できる仕事ではあるが、裏を返せばほぼ現地の人とコミュニケーションを取らずに済む仕事でもある。日本は母親への育児負担の期待が大きすぎて、フルタイムで仕事をしていても自然と「ママ友」ができたし、カナダでも母親がけっこう学校にかかわっていたので「ママ友」ができたが、香港はドメスティックワーカーか同居祖父母に子供の世話を任せるケースが多く、「ママ友」づくりのハードルが高い。そして香港の子はとにかく、習い事に行く。毎日習い事をしている。うちの子は今のところ、何の習い事もせず、家に帰ってきてだらだら宿題をし、ときどきわたしとプールに行くくらいで、友達と遊ぶ機会が皆無である。日本から知っている友達がたまたまご近所に住んでいたので、完璧な孤立は避けられているものの、友達をつくれないこの状況は新しすぎてちょっと怖い。
わたしは人が好きなので、いつもこそこそと誰かに会いに行く。カナダに住んでいたときも、東京に住んでいたときも、映画関係者や出版関係者に会いに動き回っていた。だけど香港は、言葉が難しい。広東語しゃべれません、じゃどうしようもない。アルバイトもできない。そして子供たちの学校の時間が短い。自由になる時間がない。
学校の次のクラスを取ればいいのだけれど、これからわたしは長編ゲラ2つ、長編翻訳1つ、絵本3つの大海原に飛び込むので、年明けまで集中講義を取っている時間的な余裕がない。なので、1週間に1回くらいでみてくれる広東語のチューターを探すことにした。アイルランド語も勉強しないといけないので、そちらで出会いを探すのもありかもしれない。
ガザ
ここ数日間はガザのことで頭がいっぱいで、エジプトにいる親友に連絡が取れるまでがとくに気が気ではなかった。彼とは大学からの付き合いで、エジプトでガザ支援の活動をしており、今もエジプトから医療物資と食糧、水などを届けるために動き回っている。昨日、やっと連絡が取れた。「Shameful international community」にはあまり期待をしていない、という彼の言葉には、度重なるパレスチナの人に対する暴力には目もくれない欧米メディアやリーダーたちが、イスラエルが攻撃されたとたんに支持を表明することへの失望がにじむ。
セトラーコロニアリズムで建国した米国やカナダは、イスラエルがパレスチナに行っていることを批判しないに決まっている。同じ構造の暴力で現在も先住民の人を迫害し続けているからだ。トルドー首相がイスラエルを支持する声明を出したことに驚いている日本のリベラルの人が結構いたみたいだけど、トルドー首相は一貫して先住民に冷たい。残酷。セトラーコロニアリズムでは、入植者が土地を奪い、そこに住み続ける。先住民は排除され、新しい移民や難民はその権力構造に組み込まれる。カナダで新移民として迎えられる人たちは、移民教育などを通して移民することは素晴らしいことだと学ぶし、先住民族が受けた/受けている暴力についてはかなりオブラートに包まれた形でしか学ばない(わたしの修士論文のテーマがそれだった)。新しい入植者は搾取する側を助ける場所に組み込まれる。そのため、もとからその土地に生きてきた人たちが動いてしまえば、自分だけではなく先祖や子供たちの未来を失うと考え、体を盾にして土地を守っている人たちがカナダ各地に存在している。あまり報道されないが、力による制圧も起こっている。ガザから去ることの意味が何重にもなってのしかかるのは、「土地に残る」ことに付加される意味が「その土地で生きる」ことで「闘ってきた」ことの意味が、過去の苦しみと犠牲の蓄積が、不確かな明日へ向かうこと、大事な人をなんとか守ることと、天秤にかけられるからだ。そして「去る」ことをあたかも選択肢のように与えるふりをして、実は与えず、ライフラインをすべて断ち、罪のない市民(多くは子供)までも皆殺しにしようとしているこのカウントダウンがあまりにもきつい。どうかやめてください。
わたしは20代のとき、なぜか縁があって、パレスチナやエジプト出身の友達や先生との出会いが多かった。心理的距離が近い。近いから気にするなんて平等ではないかもしれない。わたしが辛がって泣いたってどうしようもない。そんなことは分かっている。だけど涙が出るものは仕方ない。親友が奔走しているのにわたしは募金や署名しかしていない。目の前の生活は続く。だけど確実にわたしのまわりの世界は日々刻々と変化している。決して同じじゃない。同じ生活などあり得ない。そして日々変わっていく世界を、同じ顔をして生きるわたしたちの生活の果てに、何が待っていると思いますか。
年末にかけてかなりいそがしくはなるが、レイシズムに関する研究・教育活動、社会運動のための国際的プラットフォームCultural Constructions of Race and Racism Research Collective の東アジア版の作成の仕事を受けることにした。主に翻訳で参加。そして11月から週2でうちもドメスティックヘルパーさんに来てもらう。
すごい安い賃金でヘルパーさんは雇われていることが多く、気が進まなかったのだけれど、日本にいる友人に相談したら「他の人が払っている額を払わなくていい。フェアだと思う金額で雇えばいい」と言われ、目からうろこだった。相場ではなく、自分も相手も納得する量を支払うという視点がすっかり抜けていた。さっそく面接をして、フィリピンから来ている方にお願いすることになった。週2だけでも、仕事だけに集中できる日があるのは本当にありがたい。
『イエルバブエナ』
まだ体調が完璧には戻らないけれど、少しずついろいろと再開。スーパーのドリアンのにおいが不快に感じるくらいには元気になった。マイケルが鍋をつくってくれて、たくさん食べれた。『イエルバブエナ』のゲラを開いて、エミリーとサラに久しぶりに会えて、胸が躍った。うれしかった。愛おしくて、何度読んでもまた会いたくなる。そんな彼女たちの物語を、早くお届けしたい。
あ、そういえば書誌情報が公開されていましたので共有します! どうぞよろしくお願いいたします。
その香りが、その空間が、そのひとときが、わたしを癒してくれる。
傷ついても、過去に囚われても────サラは衝撃的な別れをきっかけに、16歳で家から逃げ出した。向かった先はロサンゼルス。懸命に自立を目指し、数年後に人気のバーテンダーとなった。
エミリーは将来のプランが定まらず、自信が持てない大学生。フラワーアレンジメントの仕事で訪れたレストラン<イエルバブエナ>で、バーテンダーたちにカクテルの作り方を教えていたサラと出会う。
ふたりは惹かれ合うが、トラウマや家族のしがらみ、喪失の記憶に囚われてしまう。
心の傷と向き合い、前に進むために必要なものは何か。
もがきながら自分の道を見つけるふたりの女性のラブストーリー。発売日: 2023年12月20日頃
著者/編集: ニナ・ラクール
訳者:吉田育未
レーベル: マグノリアブックス
出版社: オークラ出版
発行形態: 文庫
ページ数: 416p
ISBN: 9784775530269