9月が終わる。先月はほぼずっと日本にいて、月末に香港に戻ってきたのだけれど、そこからここまで息継ぎができないくらいいろいろあった。仕事のことでもいろいろあって、そのほとんどはここには書けないのだけれど、出版翻訳を続けていく気持ちがどんどん薄れていっている。ひとつの会社とか、かかわっている人ひとりの問題ではなく、けっこういろいろな方面、いろいろな取引先と辛いことが続いたひとつきだった。
けれど、もうそういうことにも慣れてしまったというか、出版翻訳を始めてからだいたいがこういう感じなので、あまり驚くことも怒ることもない。「いくみは翻訳をしているときすごく楽しそうだからできるだけ続けてほしい」とマイケルはずっと応援していてくれたけれど、最近は彼も「ちがう世界の方がちゃんといくみのことを扱ってくれるかもしれない。あまりに辛そうで、がんばってほしいとはもう言えない」と言うようになった。
わたしが下っ端翻訳者だから、次から次へとこんな感じのことが起こるのだろうか。わたしの力不足だと言われればそうなのかもしれないけれど、そんな風に考えてしまうのもきつい。ただただ、物語と読者からの言葉だけを支えに、目の前の翻訳に向かう日々。
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一方で、2年目に入った香港での生活はとても順調だ。1年目の目標だった「広東語と種まき」の成果が少しずつ見えてきたように思う。子供たちを地元の学校(インターナショナルではなく)に通わせるようになり、学校を欠席、早退するときの電話連絡や日常の買い物などは広東語で問題なくできるようになった。すぐにママ友もできて、今では毎週水曜日にマーケットにいっしょに買い物にいく。広東語オンリーの時間が増えて、シビアに発音もチェックしてくれるので、学習レベルが少し上がったと思う。
わたしは漢字の知識があるため、広東語の筆記された文字の意味の把握が速いけれど、そのぶん、日本語の感受を学習するときの癖が抜けない。それは、漢字を覚えるときに読み方と意味を覚えて満足してしまうというもの。広東語の場合、それプラス、トーンと舌の使い方を覚えなければ使い物にならない。もっと言えば、広東語は口語の言語なので、発音が分からずに漢字だけ分かっていてもほんとに意味がない。英語の勉強は文法とスペリングを固めてからアウトプットに移ったわたしなので、言語学習の進め方を根本的に変えなければならないと最近になって痛感している。なので今は、最初の授業のノートから語彙を書き出して、すべて発音と合わせて暗記し直している。もっと上手になりたい。
そんな風に思えるのは、木版画教室から広がる香港のアートコミュニティへの参加にあると思う。木版画教室で出会った4人(香港人3,わたし)で「クリエイティブ・マインド」というグループをつくり(いつのまにか誰かが勝手にそう呼んでいた)、5月くらいから月1で近況報告会をしている。ひとりは独立書店店主で、わたしの訳書も取り扱えるように調べてくれている。ほかメンバーは、グラフィックデザインオフィスの主催者と、ガラス造形アーティスト。カメラを持っていっしょに写真を撮りに行ったり、書店でのイベント、アートブックフェアに参加したり、わたしの広東語レベルでは入れないところまでぐいぐい連れていってくれる。
いっしょに市場に行くママ友も、香港の野菜の調理の仕方、魚の名前など一生懸命教えてくれる。釣り場が偶然一緒になったけの釣り人たちも、やさしすぎて、毎回涙が出そうなくらい。釣り方を教えてくれたり、その埠頭の歴史についておしゃべりしたり。広東語だけでわたしとコミュニケショーンをとるのはほんとに大変なはずなのに、すごい熱量でたくさん教えてくれる。わたしにとって香港は、すごくやさしくてあたたかい場所。
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出版翻訳をせずに何をするか考えていて、ある資格を取る準備をしていたのだけれど、すごく違和感が大きかった。現実的には完璧のように見える選択なのだけれど、同時に、もしやれば絶対に心が苦しくなる選択だと分かっていた。ずっと悩んでいた。
そうしたら昨日、マイケルがすべてを察したみたいに「いくみは今、過去のトラウマと未来への展望をいっしょくたにして考えていると思うんだけど、ちがうかな。ぼくから見える限り、そのふたつはまったく別の問題だよ」と声をかけてくれた。それを聞いて、涙が止まらなくなった。高校生のときから抱えているトラウマから逃げたくて、安易な選択肢に飛びつこうとしていたのだと気づいた。思えばわたしは、あのころからずっとそうだ。わたしを傷つけたあるひとりの男のようになりたくなくて、なりたくない一心で逃げ回ってきた。
「いくみは彼とは全然ちがう人間だよ。
だからゆっくり見ていいんだよ。
ゆっくりしていいんだよ」
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自分を追い込むのではなく、優しく手を引くような気持ちで、もっとゆっくり歩けたらいいのにな。友達の話を聞くみたいに、自分の言葉にも向き合えたらいいのにな。
もっと速度を落として。せっかくこんなにあったかい場所にいるんだから。