「ケーテ・コルヴィッツの画業」
版画のクラス2回目はケーテ・コルヴィッツについてだったので、先週は彼女について読んでいた。集めた資料の中に宮本百合子が書いた彼女についてのエッセイ「ケーテ・コルヴィッツの画業」があり、冒頭部分が『喉に棲むあるひとりの幽霊』を彷彿とさせたので少し紹介したい。
ここに一枚のスケッチがある。のどもとのつまった貧しい服装をした中年の女がドアの前に佇み、永年の力仕事で節の大きく高くなった手で、そのドアをノックしている。貧しさの中でも慎しみぶかく小ざっぱりとかき上げられて、かたく巻きつけられている髪。うつむいている顔は、やっと決心して来た医者のドアの前で、自分の静かに重いノックにこたえられる内からの声に耳を傾けているばかりでなく、その横顔全体に何と深い生活の愁いが漲っていることだろう。彼女は妊娠している。うつむきながら、決心と期待と不安とをこめて一つ二つと左手でノックする。右の手は、重い腹をすべって垂れ下っている粗いスカートを掴むように握っている。
「医者のもとで」という題のこのスケッチには不思議に心に迫る力がこもっている。名もない、一人の貧しい、身重の女が全身から滲み出しているものは、生活に苦しんでいる人間の無限の訴えと、その苦悩の偽りなさと、そのような苦しみは軽蔑することが不可能であるという強い感銘とである。そしてさらに感じることは、ケーテ・コルヴィッツはここにたった一人の、医者のドアをノックする女を描きだしているだけではないということである。ケーテはモデルへつきない同感を、リアリスティックなつよい線と明暗とで、確(しっか)り感傷なく描き出して、忘れ難い人生の場面は到るところに在るということを示しているのである。宮本百合子「ケーテ・コルヴィッツの画業」
わたしが見つけられる限りの日本語の資料でいちばん詳細に、そして熱烈に書いたのは宮本百合子で、わたしはこの著者をよく知らなかったのだけれど、彼女についても読んでいくと同時代を別々の場所で生きたふたりの「婦人芸術家」は確かに共鳴していたのだと感じた。コルヴィッツが宮本のことを知っていたら、彼女もまた興味を返しただろうか。コルヴィッツはずっと貧しい人や労働する女性たちを描いていたが、第一次世界大戦で息子をなくしそこから子供を抱く悲しむ母親、守ろうと抱える母親をモチーフに繰り返し描くようになった。わたしは以前に彼女の作品と知らずに、彼女の作品を見たことがあり、そのひとつの作品は深く印象に残っていた。ジル・スト―ファー著「倫理的孤独――聞かれないことの不正義(Ethical Loneliness — injustice of not being heard)※未邦訳」の表紙だったのだ。
油性インク一色で木版に刻まれたイメージをうつしたこの作品がわたしの胸にざわざわとたてた波はずっとおさまらず、今回の授業でこの作品がコルヴィッツのものだと知り、なんだか妙に納得した。しずかに見つめ続け、作り続け、怒りと悲しみに燃えながらアクティビズムをやめなかったコルヴィッツの生きざまというか、心がにじみ出ているような気がするのだ。彼女はずっと平和を訴え続けたけれど、第二次世界大戦中はナチスドイツに「退廃芸術」と作品を呼ばれ活動が禁止され、そのうえに孫が戦死した(第一次世界大戦で戦死した息子の名前も、孫の名前もピーターだった)。それでも彼女はつくりつづけた。
彼女はゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』から「種を粉に挽いてはならない」という一文をタイトルにした作品も発表している(くわしくはこちらの記事から)。
この日の授業は肖像画がテーマだったので、コルヴィッツを彫った。下書きから彫って刷るまで1時間しかなくてあまり満足いく出来ではないけれど、彼女の顔の皴を彫りながら彼女のことをもっと知りたくなった。
今回の授業は、予習をしていった甲斐あって前回よりも楽に授業についていけたし、友達のミシェルやトビー、それから授業中によく話しかけてくれたゴードンも積極的に広東語のヘルプを申し出てくれて、前回あんなに悲しい気持ちになったのが嘘みたいに楽しい時間だった。授業が終わってから、広東語の先生が教えてくれたエッグワッフルの屋台にいってみた。
授業が夜10時に終わるので、暗い夜道を迷子になりながらやっとたどり着いたその場所には、屋台のカートが打ち捨てられていた。レストランも閉まっていて、店内の半分の照明が落ちていないのがかえってうら寂しい。小さな便利店が開いていたので、「ここにエッグワッフルのお店があると聞いたんですが、もうないですか」と尋ねたら、出てきたおばさんが昼間の太陽みたいに明るい声で「もうここではやってなくて、でも向こうに回ってごらん。ちゃんとあるから」と教えてくれた。
坂道を下りてその区画の反対側に回ると、長い行列ができていた。行列の先には小さな店舗があり、赤い字で「南山 鶏蛋仔」と描いてあった。屋台時代の評判がとてもよく大繁盛して、小さな店舗を持てるようになったそうだ。昔は隠れるように夜遅くから朝まで営業していたけれど、今は夕方3時から夜中12時まで。おじいさんと息子さんがたくさんのエッグワッフルを焼いていた。大きなワッフルが10ドル(200円くらい)。熱々で、ふわふわでおいしいのだ。だいすき。
その話を広東語の先生にしたら、えらく喜んでいた。週末にさっそく行ったらしい。
そのエリアは大排當と呼ばれる屋台村のようなところだったので、毎週何か新しい食べ物にトライしよう。
週末は子供と一緒に中文の試験の勉強をした。ママ友が家庭教師をしてくれるのを横で見ていたので、最近中文の勉強の仕方が分かってきた。こんなに漢字を繰り返し練習するのは、小学生のころ以来かもしれない。
なんだか不思議だな。2年前はカナダにいて、まだ香港に行けるかどうかも分からなかった。マイケルの手術が受けれるのかも分からなくて、その日その日で精いっぱいだった。なのに今、わたしは特にあのころ興味もなかった香港に住み、広東語をなんとか使ったり、中文の教科書とにらめっこしたり、今までにない数の新しい食材を口にしたりして、日々目まぐるしい日々を送っている。
忘れないうちに書き留めたいけれど、これを書いている最中にも、書きたいことがあと10個くらいある。追いつかない。だけど確かに、わたしのなかに残っていく。言葉とはちがう形で。