おはようございます! ふるさと、佐賀で書いています。育未です。
このうろこ雲。うっすらとした感じが、大好き。英語では、cirrocumulusというのかな? 「シロキュミラス」みたいな発音。この雲を見ると、どうしてか自分が詩や物語を書いていた日々を思い出します。じつはカナダに住んでいたとき、文芸誌に何度も英詩や短編を応募していました。そもそも文芸翻訳をはじめたのは、創作の勉強のためだったのですが、ふたりめの子供が生まれてから、どうしても書けなくなり、翻訳に没頭するようになりました。
この空が見れた日、カナダにいる詩人ドーラ・プリエトさんから連絡がありました。フェミニズム文芸誌「Room」の詩コンテストで大賞に選ばれたという知らせでした。彼女の作品は、同人誌LETTERS UNBOUNDで紹介していますが、同人誌を作成するなかでドーラとは何度も言葉を交わし、つながりを築いてきました。(わたしは同人誌自体は今便をかぎりに抜けています)。
同人誌に収録した詩「ペペ」は、戦争を逃れたおじがパーキンソン病に苦しみ、「言葉を話さない」こともまた「言葉」であり、「抵抗」なのだというメッセージのこめられた作品でした。数週間前に、ペペが亡くなり、ドーラは悲しみに暮れていたので、この良い知らせをきいたときはすごくうれしかった。
ドーラの初期作品は匿名で発表されており、名前も連絡先もわかりませんでした。でも、「あなたのやせっぽちパパ」という“不法移民”を父に持つ娘の物語(同人誌収録)を読んだとき、ぜったいに翻訳したいと思い、短編が掲載されていた文芸誌編集部に問い合わせました。
ドーラの作品がなぜわたしに響くかというと、彼女の文のリズムや感性が素晴らしいのは言うまでもないのですが、彼女が英語という言語、もしくは言語一般に、すごく懐疑的な態度を持っているからだと思います。幼いころに移民として英語圏に来た彼女。つねに二つ以上の言葉で自分を表現し、世界を理解しなければならなかった。そして彼女の父や、そのまわりの人たちが移住しなければならなかったのには、政治的な理由があります。望んで、移ったわけではない。望んで話す、望んで使う言語ではない英語が、いつの間にかなくてはならない創作のすべになる。物語を紡がずにはいられない。その緊張感と言語との距離感、物語ることの政治性が、ドーラの作品にはあふれています。
今わたしは、ある北米先住民の長編小説を訳しています。そのために、オジブウェの言葉を学んでいます。先住民の場合、移民や難民と違い、ずっと同じ土地にいるのに、言語を奪われ、望まない英語という言語を押し付けられたコミュニティに生きる状況もある。もしくは同じ国内でも自分たちの土地を追われ、違う場所に移されることもあります。同じテキストに並ぶ英語とオジブウェ語をいっしょに日本語に変えていく作業は、自分の立ち位置や、言葉のあいまいさ、言語にひめられた力関係、歴史、政治、抵抗をひしひしとわたしに感じさせます。その真ん中でバランスをとるなど無理なのに、なぜかその綱渡りにわたしは自分の探しているものがあるような気がしてなりません。ドーラの作品は、わたしの持つ疑問、言語への執着と興味、そして物語ることの可能性を示してくれるような気がします。
出会いからおよそ一年。ドーラはいくつも新しい作品を生み出しています。そして新作を読むたびに、彼女の言葉がつかもうとしている生の複雑さ、彼女の真摯さに胸を撃たれます。なによりも、すごく文章が心地いい。現在彼女は、はじめての長編を書いるそうです。
ドーラの作品を読むと、書きたくなります。翻訳とはちがう、言葉と向き合う時間を取りたくなります。わたしにもまた、書けるかな。書きたいと思えるのは、ほんとうに久しぶりです。
今のわたしの目標は、まずはカナダに着いたらオジブウェ語の教室を見つけること。それから、もう一度、英語で詩を書きはじめることです。
それではまた来週。今度はカナダからかな……?