ゲラが終わり、8月に刊行される『喉に棲むあるひとりの幽霊』(デーリン・ニグリオファ著 作品社)がわたしの手から離れた。この作品は、現代のアイルランドを生きるひとりの母親/詩人が、1700年代に生きた母親/詩人に恋をして、彼女の人生を浮かび上がらせようとする手記のような、ファンフィクションのような、文学批評のような、不思議な作品。
誰かへの執着で自分の空洞を埋めようとする感覚や、母親になったことで失ったものに気づく瞬間や、女としてのテクストを通して離れ離れの女たちが手に手に手を取って存在していて、それがずっと続いていることへの気づきなど、ここ数年で自分が体感したことを言語化してくれる場面に溢れていて、ほんとうに訳すことが出来てよかったなと思える作品だった。どんなふうに読まれるのか、すごく楽しみ。
もうひとつ、ゲラを待っている作品があって、こちらはトランス女性が主人公のニューヨークを舞台にした小説なのだけれど、今はそれを待ちながら、短編集の訳を進めている。この短編集は、吉田智子作品を想起させるような背筋がぞくぞくする物語から、アブストラクトな詩のような、脳内に深く深く潜りつつ、体の感覚を研ぎ澄まさせる物語があり、訳していて最高に楽しい。夏休みなんていらない。この作品を訳すことが夏休み、と言い切れるくらいに楽しい。塔にこもって翻訳したい。
けれど子供たちの夏休みがはじまると、また自分の仕事と夏休みと家事労働といろいろの境界がぼやける。塔にこもるどころか、仕事をするための場所と時間の争奪戦だ。来週からしばらくカナダに滞在し(東と西)、そのあと、九州にいく。香港に戻るのは一カ月ほど先だ。旅をしながらでも、できれば全部ひととおり訳し終わりたい。推敲にじゅうぶんな時間をかけられるように。
この数カ月での変化は、釣りと木版画と広東語日記を始めたこと。釣りは、先日ライマンとよばれる魚を20匹ほど釣った。地元の漁師さんに連れていってもらった場所がえらい釣れる場所で、ちょっと釣れすぎて罪の意識にさいなまれるほどだった。この釣り場に行くと、青い頭のサギがいつも飛んでくる。頭に刺さった旗みたいなのが、長い鼻のように見えるので「ピノキオ」と呼んでる。ピノキオに釣れた魚をおすそ分けする。
木版画はひと月、毎週金曜日の夜6時から11時までクラスを取った。クラス終了後、仲良くなった4人で木版画クラブをつくり、今はファニーというガラス細工アーティストの工房でいっしょに作業する準備を進めている。彫刻刀などの道具はそろい、先生も見つけたので、秋からまた集まる予定。
広東語の日記は思ったより続いていて、先生が新しい日記帳をプレゼントしてくれた。先生もわたしも食べ歩きが好きなので、食べ物の記録を広東語で書くことにする。毎週添削してもらっている。しゃべることだけでなく、読み書きももっと身に着けたいな。言語学習は終わりがない。だからやりがいがある。目標なんてなくていい。だらだらやって、日常の一部になるのがいい。わたしの場合は、朝早めに起きて、ちょこっとやる。クラスの前日はまとめて2時間くらい勉強する。香港での暮らしがどんどん楽しくなる。
翻訳について、ずっと考えていること。
たくさんの人が問題提起してきたけれども、どうしても書籍翻訳(とくに文芸)翻訳料では生計がたてられない。翻訳料が1冊20万円のところもある(もっと低いところもある)。4カ月費やしてその料金で訳した場合、ひとつき5万円。重版しない限りは、それでおしまい。しかも作品の翻訳後にすぐに刊行されるわけでなく、本の刊行後にすぐに支払いがあるわけでもない。翻訳終わってから数カ月待って刊行され、刊行後3カ月から半年待って、報酬を手にする。
書籍翻訳をすると決めたとき、分からない世界すぎて、「まずは3年で10冊訳してからどうするか決めよう」と始めた。3年たった今、刊行されているもので多分12冊。訳了したのは15冊だと思う。それで今のわたしはやっぱり、サステナブルな働き方ができていないと判断せざるを得ない。
わたしは母子貧困家庭で育ったこともあり、母親に稼ぐ力がない場合のリスクを、身をもって、痛いほどに知っている。「母親」が稼ぐ力をつけること、稼ぐことのできる環境を見つけることの厳しさも、知っている。なので今年に入ってから、新規翻訳の依頼を受けていない。それは、今取り組んでいる作品が終わったら、働き方を変えたいと思っているからだ。翻訳は続けていくけれど、以前の「夜な夜な翻訳」に戻す。昼間はちがう仕事をしたいと思う。来年からかな。なので、今までのようなハイペースでは訳せなくなる。翻訳が大好きだから、本当は四六時中訳していたのだけれど、マイケルに何かあった時に金銭的に絶望せずに子供たちを育てられるように、長期で住む場所が決まった今、ちゃんと考えていきたい。
今度書くときは、カナダの東海岸、ノバスコシア州からかな。