毎回ゲラは苦しい。けれど、違和感を覚えて青色の鉛筆でしるしを入れた箇所に、しっくりいく訳が見つかり、これ以上はできないと思えるところまで取り組めると、心の底からほっとする。そこにたどり着くまでのストレスが大きい。家事一切ができなくなる。高い塔のてっぺんに閉じこもりたい。だれも訪ねてこない、声も届かない場所で、ゲラやりたい。
けれど小さい子ふたりがいる生活ではそういうわけにもいかないので、弁当を作り送り走り、ゲラをやる。今週は、弁当づくり以外の料理を一切していない。どうしてか分からないけど、料理で使う脳の部分とゲラで使う脳の部分がかぶってると思うんだよね。食べてもなんか、味がよく分からない。外食かテイクアウトに頼る。今週はマイケルも学期末で忙しくて、偏った食事になり子供たちがかわいそうなのだけど、初稿ゲラ締め切り前は仕方ないのだ。やっと終わりが見えてきた。今回はおそらくいちばんきつかった。
といいつつ、『聖なる証』もきつかった。あの作品はドナヒューの膨大なリサーチに基づいて書かれており、それを追う形でわたしもリサーチするのだけど、既訳がない資料がほとんどなので、それも自分で訳す。200年くらい前の話なので、同年代の同じ系統の資料訳文を読みまくってボキャブラリーを把握したうえで訳さないといけないので、ほんとうに大変だった。『聖なる証』刊行から一年くらいたったかな? 最近読んだ読者の感想に「女が怒り続けている物語」というのがあって、ほんとうにそうだなと思った。「女が怒る」のはそもそも大変だけど(怒ってるんだけどそれを表現するのがすごく大変)、「怒り続ける」のって、もっと大変だよね。怒りを感じないふりをせず、自分の中で折り合いつけず(つけられず)、怒り続ける。怒りが変化をうむ。『星のせいにして』もそれがすごく好きだったなと、その感想を読んで思った。作家シャーマン・アレクシーが「anger X imagination=poetry(怒り×想像=詩)」と書いていたけど、怒りが滲むテクストを訳すことはわたしにとっての使命のような気がしている。
『聖なる証』は子供のために大人がどこまで踏み込めるのか、逆に言えば、子供を殺しているのは何なのかあぶりだす作品で、謎解き要素もあるので絶妙な緊張感に溢れていて、訳すのがとても難しかった。だけどそうやって苦労した訳した作品のなかの人たちは、一生の友達みたいな存在になる。あの子は元気かな。ふと考えて、幸せな気持ちになる。
『聖なる証』はフローレンス・ピュー主演で映画にもなっていて、ネットフリックスで視聴できます。映画と小説はけっこう違う部分があり、好みが分かれそうだけど、映像美が素晴らしく、映画の構成自体も面白いです。ドナヒューは主人公のリブ・ライトはぽっちゃり体系の「美人ではない」人を想像していたそうですが、フローレンス・ピューと聞いて、イメージとは違うけれど承諾したそう。「作品は絶対に手放さない」という哲学があるドナヒューは、映像化や舞台化の制作に必ず自分の声を反映させられる、想いを託せるひとたちだと思えないと原作使用の許可を出さないそうです。『部屋』もハリウッドスタジオからかなりオファーがあったらしいけど、全部蹴って、アイルランドの制作会社に託した経緯があります。
今ゲラ作業中の作品は、7月に刊行予定。女であること、母親であることについて書いた作品です。リサーチも表記も文体もすべてにおいて過去イチ難しかった作品だけれど、自分の状況とシンクロする部分も大きく、ノンフィクション的な作品でもあり、とても楽しかったし学びも多かった。お届けできるまでもう少しがんばります!!