子供のころ戦争や虐殺のことを学ぶたびに、当時の人はどうして止めなかったんだろうと不思議だった。米国に留学して米国側からの「歴史」を学んだけれどとちゅうで、サウスダコタ州パインリッジインディアン保留区へ行き、そこで「歴史」という紙の脆さと不公平さを学んだ。虐殺が行われた草原を見つめた。日本に帰って北海道を訪れ、ふるさと佐賀で学んだ「七賢人」の「歴史」をとらえ直し、カナダに移ってからはアニシナべネーションの先生のもと移民教育の歴史を巡るディスクールの研究をした。
パートナーはユダヤ人をかばって殺されたドイツ人のひ孫であり、彼のおおおじに当たるジャーナリストはナチスドイツ下でユダヤ人の映画製作者を支援。もっとさかのぼるとサラエボ事件にかかわっている人にいきつくらしい。母方は独立戦争で米国側につかなかった英国人で、カナダに渡り、先住民の地に入植。わたしの祖父方の家族は長崎の原爆で祖父以外全員焼かれ、祖母は戦時中韓国で日本人家庭に生まれた。
そして今、わたしは香港にいる。
口を閉ざす。冷たい風が吹く。
親友はエジプトでガザにむかって、届かないその手を伸ばし続けている。
人間が、子供たちの体が、バラバラにされている。
「当時の人はなんで止めなかったんだろう」
答え合わせなんてしたくない。
答え合わせをしたくない。
SNS上で、多くの有志がガザの人々の声を翻訳している。
その行為自体に対し、批判的な考えの人もいるようだ。原則、著者の許可は取るべきだし、災害情報などの場合は何重にもチェックをして慎重を期すべきだと言うのは前提にしたうえで、
今回のような場合、一刻も早く惨状を共有し、連帯を呼びかける目的が先にあるのだから、通常時の原則をあてはめようとしても意味がないとわたしは思う。
また、犠牲者の詩などが最大のケアを持って訳されるべきだと思う一方で、翻訳という営み自体が、「絶対の正解をもたない」(誤訳はあるが)とわたしは思うので、同じ詩を様々な人が訳し、さまざまな訳詩が出てきたらそれでいいじゃないかと思う。
翻訳するとき、言葉は体に、心に、どうしたって入ってくる。翻訳する行為自体で自分の心の整理をつける人、犠牲者の心情を理解しようとする人、その言葉を自分の物として感じたい人、いろいろいると思う。それを共有していっしょに言葉の音を感じたい人もいると思う。翻訳というプロセス自体にも大きな意味がある。
わたしは翻訳が「中立」や「透明」であると感じたことがないし、「中立」や「透明」でありえないから難しいし面白いと思っている。訳者の経験やバイアスがかからないと思うよりも、必然的にかかっているのであるから、それは何かを明示して訳文を提示したほうがよっぽど面白いし、翻訳という行為自体が権威的になりにくいと思う(誤訳はその都度、指摘すればいい)。
言葉はあやふやで頼りない。だけど、言葉でしか伝えられない、投げれるものが言葉しかないときがあるから、それをどうにか運ぼうとする人にわたしは強く共感する。
何をしていてもガザのことを考える。
ジェノサイドをやめて。
ここ数週間、頭から離れないGogol Bordelloの歌のさび。
When the universes collide,
Son, don’t get caught in the wrong side.