

Discover more from ほんやくすること、暮らすこと
手術、終わりました!
無事にマイケルの手術が終わりました。ご心配をおかけしました。メッセージなどで励ましてくださったみなさま、本当にありがとうございました! 育児と看病をしながら仕事をするのがすごく難しくて、こういう状況の人がいないのかなと思って調べていたら、「ダブルケアラー」と呼ばれているんですね。高齢化にともない、ダブルケアラーの負担の問題が大きくなっていることを知りました。また、「ケアギバー・バーンアウト」という言葉の存在も知りました。「ケアする人の燃え尽き症候群」という意味ですね。他の人のことをケアするあまり、自分の体と心をないがしろにして無理が蓄積し、うつ症状などにおちいってしまうことがあるそうです。自分が経験しなければ見えなかった辛さですし、もう少し自分なりに考えてみたいなと思います。
「下駄をはかされている」
さて、昨日の夜くらいからツイッターに制限がかかり、部分的にしか利用できなかったり、まったく見れなくなったりしました。その前の数日間で、翻訳者のあいだで性差別をめぐる疑問の投げかけがあり、問いかけをした人に対し謝罪を要求するトーンポリシングのような動きがありました。見えないところで女性たちはつながり、いろいろと話し合ったりしていたわけですが、あの流れは正直とても怖かったです。
「性差別があるのではないでしょうか」「下駄を履かされていることにお気づきか」という問いかけを個人攻撃と受け取り、自分の下駄を守ることに必死になれば、かんじんの性差別や下駄の話ができなくなる。間接的に、女性たちの声を奪ってしまうことになります。疑問を呈した人の気持ちも、その周りにいた人たちがひめていた痛みも、明るみに出ることはゆるされませんでした。
サラ・アーメッドが「問題を提起することは、自分を問題として提起することになり、彼らはあなたを問題ととらえ、あなたがいなくなれば、あなたが黙れば、問題もまた消えると思い、黙らせようとするでしょう」というようなことをLiving a Feminist Lifeで書いていましたが、それをまざまざと見せられた気持ちでした。
いったい何人の女性たちが、ツイッターの投稿欄に自分の気持ちをかき、保存し、また書き、修正し、保存し、削除し、また書き、投稿ボタンを押そうとして思いとどまるという動作を繰り返したでしょうか。「下駄をはいているのではないか」という疑問が自分に向けられているかもしれないと思って怖かったし傷ついたという趣旨の投稿が男性からなされているのをいくつも見ましたが、その下駄で踏みつけられている女性たちの痛みが、そのためにかき消されるのがすごく辛かったです。
そしてつまるところ、下駄をはかされている男性が悪いと言っているわけでも、その人格を否定しているわけでもないというところが、今回の一連の動きがすごく空しく感じられたいちばんの理由です。はじめから、下駄をはいている人がどんな人格者でも、どんな功労者でも、どんなにやさしい人でも関係がないんです。だれかの人格や人生を否定しているわけじゃない。下駄をはいているから「差別主義者」だと糾弾しているわけでもない。シンプルに、関係がない。どんなTシャツを着てても、裸でも、下駄をはいていることに変わりがない。もし何か変わりがあるとするならば、下駄を履かせられていると理解した人が、その下駄は脱げないんだと理解したうえで、そこからどう動けるかではないでしょうか。
他人事ではない。
わたしも自分の特権を指摘されて、傷つき、自己防衛に走ったことがあります。もう10年くらい前になりますが、トロント大学で勉強していたとき、Idle No Moreという先住民の権利運動についての講義を受けていました。そのとき、ひとりの英国系で白人のカナダ人であるクラスメイトが「わたしたちはみんなセトラー(入植者)だ。先住民と先住民の大地を搾取して利益を得て、そして搾取構造を保持させている存在だ」と発言したんです。そのときわたしは、「え? わたしは移民したばっかりだよ。日本人だよ。めちゃめちゃ差別されてるよ? あなたのセトラー度とわたしのセトラー度をいっしょにしないでよ」と言いたくなりました。そして愚かにも、その気持ちを当時指導教官だったアニシナベの先生に話しました。
「なぜそう思うのか、自分のなかで整理してみなさい。先住民であるわたし自身は、あなたのことをセトラーだとは呼ばない。あなたのことはレラティブ(つながりをもつもの、親戚)だと思っている。みんなつながっている。だけどなぜあなたのクラスメイトはわざわざその言葉を使い、あなたに問いかけたんだろう。なぜあなたは、傷ついたんだろう。あなたが見えているもの、あの子が見えているもの、わたしが見えているもの、そしてだれも見えていないかもしれないもの、それがなんなのか、自分に問いかけてみなさい」
先生からそう言われて最初に気づいたのは、自分が無知であるということでした。わたしは「セトラー」という言葉のニュアンスをまずよく知らないし、カナダという構造の中でそれがどんな役割を持ち、どのようにアサインされているのか、いつだれがどのようにして「セトラー」になる、もしくはならされるのか、知らなかった。ただ漠然と、自分が批判されたような気がして、自分が楽をしていると言われた気がして傷ついた。その言葉だけに固執して、いったい何を言われているか、考えようともせず耳を塞いだことに気づきました。
それでたくさん本を読みました。トロントにあるネイティブカナディアンセンターに行って、できるだけワークショップに参加しました。ビーズの編み方を教えてもらったり、スマッジングをしたり、ラウンドダンスやセレモニーに招いてもらったりするようになりました。自分のことを「セトラー」だと認識し、それを言葉に出すことは最初は怖かったけれど、その立ち位置を認め受け止めてみたら、そこからどういう風に動けるのか考えられるようになりました。「自分が正当に評価されていないのではないか」という恐怖心が、「知らないうちにだれかを踏んでいるのではないか」という恐怖心に変わりました。そしてわたしはこの恐怖心を大事にしたいと考えています。
そして自分の加害性、特権を認めたとき、その時点にたどり着くまでに経験した辛かったことが実は構造的な差別によるものだったと気づいたり、当たり前に耳にしていた言説が実は差別的だったことに気づくようになりました。
今回のことでひとつ良かったと思えるのは、問いかけにたいして共感するたくさんの女性が認識できたこと。そして見えないところで手がつなげたところです。痛みを共有する者同士が、それぞれに認識し合い、助け合おうとし、いっしょに動き出そうとする。そこにわたしは大きな希望を感じます。
SNSについて
最後に、ツイッターはどうなるか分かりませんが、わたしはマストドンやインスタグラムでもいろいろ発信しています。マストドンはけっこう意味不明なつぶやきが多く、インスタグラムはリスとか森の写真が多いです。もしよければチェックしてみてください(SNSのリンクまとめ)。
Have a great week!
Sincerely,
Ikumi